こんばんは。時文です。
TVアニメ『アンゴルモア 元寇合戦記』を見てから、鎌倉時代(特に蒙古襲来)に興味を持ちました。

ところが鎌倉時代の事など、すっかり忘れてまして・・・
少し勉強したくなりました。
歴史を知れば『アンゴルモア 元寇合戦記』をより楽しめるのではないか、と。
私の勉強法は・・・まずはマンガからです(笑)
マンガで概要をつかんで、必要なら徐々に難易度の高い書物等に目を通していきます。
1冊目は、「週刊マンガ日本史12号『北条時宗-蒙古襲来』」
「週刊マンガ日本史」は1号1冊で日本史上の偉人を取り上げ、2010年に週刊で刊行されました。
鎌倉時代の偉人は北条時宗(12号)と源頼朝(11号)が対象。
ページ数は30ページほどで、気軽に読めます。
マンガ部分はあっと言う間に読めます。
オールカラーで文字だけよりイメージが掴みやすい。
マンガ以外の補足説明が(ページ数の割に)充実。
1から勉強したいと思っていた私にはピッタリでした。
ただ、描かれているのは、1度目の蒙古襲来「文永の役」の翌年からです。
それでも、本書で、鎌倉幕府から対馬や博多がどのように見えていたのか、知ることができ興味深かったです。
以降は、『アンゴルモア 元寇合戦記』でまだ描かれてない時代の史実について記載しているので、史実でもネタバレになるようなことは知りたくない!という方は、お気を付け下さい。
それでは、「週刊マンガ日本史12号『北条時宗-蒙古襲来』」のレビューをどうぞ。
目次
はじめに (「週刊マンガ日本史12号『北条時宗-蒙古襲来』」概要)
取り上げられている時代
本書で取り上げられているのは、文永の役(1度目の蒙古襲来)の翌年から、弘安の役(2度目の蒙古襲来)が終わるまで。
西暦で言うと、1275年~1281年です。
主役
- 北条時宗
若干18歳にて鎌倉幕府の最高権力である執権となった。
大帝国・元から服属を迫る使者が何度も送られてきたが無視していた。
感想レビュー
鎌倉幕府は、なぜ元の使者を無視し続けたのか
鎌倉(幕府)へ使者が来たところから、本書の物語は始まる。
元の皇帝・フビライからの使者はそれまでも何度も派遣されていた。
だが、使者は追い返されていた。
本書では、無視し続けた意図は”はっきり”とは書かれていません。
なので、読み取ると、
北条時宗は日本という国をなくしたくない。
守り切れるかどうか分からないが、「座して死を待つよりは・・・」
との考えだと感じました。
結果、後述する現場の御家人たちの奮闘と、運により、侵略は免れた、というところでしょうか。
この点については、引き続き調べていきます。
文永の役:博多上陸はなぜ1日で終わったのか
「文永の役」での元の兵力は、元(モンゴル軍)と高麗の兵を合わせて3万。
日本軍を圧倒したが、翌日には撤退したという。
その理由について、本書では、
- 日本の様子を見に来ただけだったから
- その夜、暴風雨で船がすべて沈んでしまったから
という説があるが、真相はいまだ不明との記載。
さてさて、真相も気になりますが、
私は『アンゴルモア 元寇合戦記』の博多編でどのように描かれるのかが気になりますね~~
※私は、「”創作”はどう描こうと作者の自由」という考えです。
弘安の役:前回をはるかに超える兵力14万人!
1281年弘安の役。
博多沖に現れた船900隻。さらに3500隻が合流。
兵数、計14万人。
元の大艦隊襲来である。
さらに、
フビライからは「すき・くわ・種もみなどを持っていき、長期戦に備えよ」と指令が出ていた。
長期戦になっても日本で戦い続けられるよう準備をしていたわけですね。
対する日本軍は兵力4万人。
そして、「文永の役」での反省を踏まえ、北条時宗は手を打っていた。
- 御家人を沿岸警備にあたらせる「異国警固番役」を制度化
- 海岸沿いに高さ2~3メートルの石築地(防塁)を、20km以上築く
弘安の役:日本の勝因は・・・筋は通ってる!
2ヶ月にも及んだと言われる「弘安の役」。
14万もの大軍にどのように打ち勝ったのか。
学校で学んだ知識では「神風により」と言う抽象的な、あるいは神懸かり的なことが起きた、という程度しか覚えがない。
本書では、論理的な説明があり、ありがたいですね。
その結論は、まだ少し疑問は残りますが、一応筋は通ってました。
簡単に紹介します。
※詳細は本書をご覧下さい。
モンゴル軍の強さとは
まずは、大陸を制覇したモンゴル(元)軍の強さについて。
#元は1271年にできた。それまではモンゴル軍。
モンゴル軍の一番の強みは馬を使った”機動力”。
遊牧民族であるモンゴル人は、小さい頃から馬に乗り慣れ、馬に乗ったまま自在に戦う事ができたのが、一番の強み。
さらに、集団戦法に長けていた。
日本では実力を発揮できなかった?
機動力と集団戦法で圧倒的な強さを誇った元軍は大陸で勢力を広げていき、島国の日本まで攻めてきた。
しかし、元軍が船を使って攻めたのは、日本がほぼ初めて。
その上、機動力を発揮する馬を船に乗せるのに限りがあった。
そして、元軍の大半は征服したばかりの南宋兵。
元に対する忠誠心が低かった。
これらにより、「弘安の役」での元軍は真の実力を発揮できなかったのではないか。
- 船を使った戦闘は、ほぼ初めて
- 船に馬を乗せるのに限りがあり、得意の機動力を出せなかった
- 兵の大半は、南宋兵で忠誠心が低かった
日本軍の工夫と踏ん張り
対する日本は「文永の役」の反省から、これまでの戦いを捨てた。
防塁で守りを固めながら奇襲作戦を挑む。
結果、2ヶ月間も元軍の上陸を阻んだ。
そこへ、台風がやってきたのである。
- 守りを固め、上陸させなかった(2ヶ月間も!)
- まともにぶつからず、攻撃は奇襲攻撃
- 台風シーズンとなり台風がやってきた
結論:日本の勝因は
現代でも台風シーズンは、毎週のように台風が九州付近を通るのは皆さんご存じでしょう。
今年のような台風が来れば、700年も前の船なんて一溜まりもなかったでしょう。
日本側が台風シーズンを意図していたのかは本書には書かれていません。
#攻め時を決めたのは元軍ですしね。
が、2ヶ月も海岸へ足止めし続けたら、台風シーズンが近づき、台風が九州北部を通ることは充分あり得ます。
日本軍の粘りと、二つのツキ(元軍が本来の力を出せなかった/台風が来た)により日本は勝利したのです。
なるほど~~~
が、疑問は残る・・・
一応、本書の論法、筋は通っています。
「神風により」なんて説明より、ずっと論理的!!
一歩前に進みました!
が、まだ腑に落ちない点があります。
本書には、元軍の14万の兵士は、退却時には3万人にも満たなかったと書かれてます。
台風が来たからと言って、11万人もの兵士が、だまって海のもくずとなったのでしょうか・・・
#日本軍は4万人でしたから、もしかすると2万人くらい既に倒していたのかも知れません。
#が、それでも、9万人もの兵士が消えた計算になります。
普通なら、台風で沈む前に、一斉に上陸(避難)してくるのではないでしょうか。
それこそ、一か八かの死に物狂いで・・・
台風の時には、日本軍も平気ではなかったでしょう。
でも、数で圧倒している元軍が一斉に上陸してきたら?
それとも、台風が来る前に、かなり兵力を削っていたのでしょうか?
決して、本書が間違っている、と言っているのではありません。
おそらく、まだ別の要因、書かれてない事実があるのではいでしょうか。
本書は紙面に限りがあるので、要約されているのかもしれません。
まだまだ知らない情報がありそうです。
引き続き勉強を続けていきます。
それと、分からなくても、私に取っては『アンゴルモア 元寇合戦記』を読み続ける楽しみになるだけです♪
#それもまた楽し。
日本以外でも蒙古襲来に屈しなかった国が
日本以外でも、元軍が攻めたものの征服できなかった国があると記載されてます。
日本と同じような要因が見て取れます。
- ベトナム
ジャングルに引き込まれ奇襲攻撃で撃退
これも、元軍の強みである馬の機動力を奪われたのが原因なのでは?
- ジャワ
日本と同じく暴風雨により大打撃を。
- サハリン(樺太)、琉球(現在の沖縄)
これらも、島国。
船での遠征に、元軍は相性が悪いようですね。
これは面白いデータです。
豆知識が面白い!
ほかにも、興味深いことが、本書に書かれています。
フビライは3度目の日本遠征を計画していた
マルコ・ポーロの「東方見聞録」が蒙古襲来の原因だった?
え!
マルコ・ポーロってフビライに仕えてたんですね・・・
知らなかった・・・(恥)
いや忘れたのか?(笑)
日蓮に関する記載も。
「一所懸命」の解説や「ムクリコクリ」という言葉も出てきます。
などなど面白いネタがあるし、写真も豊富。
ぜひ、興味ある方は読んでみては如何でしょうか。
おわりに (『北条時宗-蒙古襲来』とは)
本書は短いマンガではありますが、元寇の時代の日本のことを垣間見ることができます。
『アンゴルモア 元寇合戦記』を見ている私にとっては、対馬で起こった元寇の裏側で考えられていたことが少し見え、作品により愛着が湧いてきました。
特に、1281年「弘安の役」では、日本側は奇抜な戦法をとり、粘ったことが、モンゴル帝国の撤退に繋がった。
『アンゴルモア 元寇合戦記』はまだ1274年「文永の役」の途中。
「弘安の役」が描かれるのはまだまだ先でしょうが、この壮絶な戦いが描かれるのが今から待ち遠しい。
そんな気持ちにさせてくれる、「週刊マンガ日本史『北条時宗』」でした。
ではでは。

